1964-04-07 第46回国会 参議院 社会労働委員会 第19号
なお、具体的な事犯につきましては、麻薬参与官もおりますので、御質問があればお答えいたしたいと思います。
なお、具体的な事犯につきましては、麻薬参与官もおりますので、御質問があればお答えいたしたいと思います。
それからなお大臣官房に参与官が一名置かれておりまして、官房の仕事の一部を総括整理することになっておるわけでございます。官房審議官と参与官とは、仕事の表現のしかたが、一方は「参画する」となっており、一方は「総括整理する。」
現在通商局には参与官が御指摘のとおり二名おりまして、命を受けて局の事務を総括整理することになっておるわけでございます。それから企業局には参与官が一名置かれておりまして、同じく上司の命を受けて局の仕事の一部を総括整理するというのが官制の規定でございますが、実際問題といたしまして、通商局の参与官の一人は現在今度部をつくります国際経済関係の仕事を命を受けてやっておる次第でございます。
通商参与官を、そのうちの一人をこれに充てると、こういうことであるようです。それから企業局に設けられている参与官一人、この定員を産業立地部長の定員に振りかえているようでありますが、このそれぞれの参与官の定員振りかえによって通商局の参与官はあるいは一人となり、企業局の参与官は全くなくなる、こういう事態となろうと思うのです。
ただ、民団と総連に所属しておる数字を調べるといたしますれば、これはまた別個の観点からされねばならないのでございまして、入管当局としましては、その数字を必要とする場合にはもちろん調べ得るわけでありますけれども、目下のところ、ただいま参与官から申し上げましたように、古い数字しか持ち合わしておりませんので、それは今後の問題として検討したいと思います。
○政府委員(石川準吉君) 人数そのものよりは、たとえば参与官の一名増であるとか、審議官の一名増あるいはほかの職種を要求いたしました場合にまず機構的にそういう官を認めるかどうかということによりまして、この定員はきまってまいる要素もございます。現業以外はおおむねその機構と関連させて査定をいたすことになっております。
權作君 内海 安吉君 小笠 公韶君 島村 一郎君 園田 直君 高橋 等君 辻 寛一君 中島 茂喜君 藤原 節夫君 前田 正男君 田口 誠治君 西村 関一君 受田 新吉君 出席国務大臣 国 務 大 臣 川島正次郎君 出席政府委員 内閣法制局参与 官
すなわち、たとえて申し上げますと、陸海軍大臣とか政務次官、参与官、書記官、医師、法務官、司政長官、司政官、陸海軍の看護婦長、看護婦、看守長、看守、巡査、警査、そういうような陸海軍内のいわゆるそうした文官についても軍人と同じように扱おうというので、そういったカテゴリーを作って恩給法上の軍属という言葉を与えたわけです。
昭和十二年には、第一次近衛内閣の逓信参与官となり、通信、海運、航空行政に参画されたのであります。 昭和二十年十月、君は、幣原内閣の外務政務次官となり、終戦直後の混乱期における総司令部との折衝に日夜肝胆を砕かれました。
また、昭和十四年には、平沼内閣の桜内農相のもとで農林参与官に任ぜられ、農林行政に参画されましたが、昭和十七年の、いわゆる翼賛選挙には、非推薦で立候補して次点となり、雌伏のやむなきに至ったのであります。 終戦直後、昭和二十年の秋、鳩山君が安藤正純君、三木武吉君等同志とともに日本自由党を結成されるや、君は、これに欣然参加し、翌二十一年四月の総選挙で本院に復帰されました。
昭和十年に、今から二十五年前ですが、私が農林参与官をしておりましたそのころからこの北洋漁業の問題について非常に農林省側といたしまして外務省を鞭撻し、駐ソ日本大使にもどんどん鞭撻をして、この北洋漁業のわが国の権利を擁護していく、発達せしめなければならぬという考えでわれわれ参ったのであります。
戦時、翼賛選挙に敗れ、戦後は、かつて昭和四年海軍参与官として軍備縮小のロンドン会議に出たのではあったが、やはり軍に関係したとの理由で政治の追放を受け、約十年議席を離れておられます。昭和二十七年、第二十五回総選挙に当選、本院に戻られ、その後今日まで連続して議席を占めてこられております。
君は、また、昭和二十二年、早くも第一次吉田内閣の農林参与官に抜擢され、戦後の困難な農林行政に参画され、二十六年には第三次吉田内閣の通商産業政務次官の要職につき、豊かな経験とすぐれた力量とをもって産業の復興、貿易の振興等のために尽力し、その識見と手腕とを遺憾なく発揮されました。
お手元の履歴書で御承知のように、小林君は、大正五年アメリカ合衆国州立カリフォルニア大学政治科及び同大学院法科を卒業し、中央新聞主筆編集局長、満鉄参事、満鉄ニューヨーク事務所長、農林参与官、日本海外移住振興株式会社監査役等の職務にあったものであり、森君は、昭和十三年三月京都大学卒業後……。
政務次官、参与官、内閣書記官長等の方が約十七万円から三十三万円、事務次官の方が年額約二十万円から二十二万円程度でございます。また各省の外局の長官、こういう方の恩給は十八万円から二十三万円程度でございます。それから局長の恩給は、だいぶ下りまして、大体十四万円程度であります。知事、警視総監の方は大体十五万円から三十万円程度でございまして、私もその一人でありますが、私の恩給は二十万七百四円でございます。
この間における先生の政治活動は、もとより各方面に及んでおられますが、特に農林行政の部門に造詣が深く、昭和二年には田中内閣の農林参与官に、同六年には犬養内閣の農林政務次官になって直接農林行政に参画するなど、当時最も深刻なる政治問題であった農村の不況打開に大なる貢献をなされたのであります。
幸い中村大臣は大蔵省にお勤めになったこともあるし、政務次官もおやりになり、かつて参与官もやったお方でありますから、この点をあなたのお力で思い切って今年は一つ打開してもらいたい、こういうふうに考えているわけであります。これは一つ大臣のお考えを承わっておきたい。 それから国鉄副総裁と細田観光局長にこの機会にお尋ねしておきたいのでありますが、敏腕のうわさ高い細田さんであるから、これはやり切れると思う。
その間、濱口内閣の文部参与官となり、また、若くして民政党の幹事長たること前後三回、また、党の総務として、よく若槻総裁、町田総裁を助けて、困難なる党務の運営に敏腕をふるわれたのであります。 昭和十八年には東條内閣の国務大臣となり、閣僚中ただ一人の政党人として、孤立無援の中に、よく民主政治のために努力をいたされたのであります。
幸い皆さん方の方ではトップ・マネージメント機構の強化と称して、政務次官を二人置いてみたり、事務次官補を新設してみたり、あるいはまた大久保構想というものは、食糧庁長官その他こういうものは、これは参与官と称して、たくさんの役を作って、いわゆる完全雇用をはかろうとしておられる。
○石橋(政)委員 あなたは簡素化だけを言っているんですよ、廃止の理由を、それじゃ、あなたの行政機構改革の根本が簡素化という点だけにあるならば、何で政務次官を複数にしたり事務次官補を設けたり、このごろは食糧庁や水産庁の長官まで参与官にしようとしたり、トップ・マネージメント幾構の強化なんという、そういう美名のもとに何でたくさん役を作るのですか。
(拍手) ただ、同君がいわゆる官途につかれたのは、さきの一カ年の司法官試補時代を除いては、大正十三年、加藤高明内閣において、大蔵参与官となられたのみであります。君の政治的閲歴をもってすれば、幾たびも台閣にその名を連ねてしかるべきでありますが、君があえて国務大臣の地位につこうとしなかったところに、その面目躍如たるものがあるのであります。
そうしてそういう方針をとっていることは事実認めるけれども、しかし一方では、たとえば政務次官の増員、参与官制度を設けて、もう少し充実しなければならぬ、こういう意見も一方にはあるわけです。これはどこから出てきているかというと、そういう必要を認めるからこそ、一般的な人員整理とか、局課の削減という方式と別に、必要なものに対しては認めるいとうやり方じゃありませんか。
○菊池委員 政務次官にお伺いしたいのでありますが、政務次官は前に参与官をやられて、相当の練達堪能の人でありますが、われわれモスクワに参りまして、ドイツのアデナウアーの一行が乗り込んで激論を戦わせて、わずか五日でもって独ソの国交樹立に成功し、ドイツの戦犯を帰すこと、それから大使を交換することを約束して帰った、あの手ぎわのいいやり方を見て、まことに感心したのでありますが、ロンドンにおいて四カ月、いやもう